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チャレンジしつづける素敵な大人たち

惣万 佳代子 (そうまん かよこ)
特定非営利活動法人このゆびとーまれ 理事長

のんびり生きていた

 私たちが小さいころ、家のお手伝いをすることがいい子だったんですよ。勉強することではなかった。それと学校の成績というものが意味のないものだった。もちろんトップには入れなかったし、中からみれば上なのだが、トップクラスではない。トップクラスではないなりに、生徒会の副会長になったりクラス委員長になったり、私より優秀な人たちはいっぱいいたのに。そういう意味では人気ものだったのかな、と。

 小さいころは、うちの父が漁師で海に行って泳いでばかりいました。うちの親というのは、例えば授業参観とか、大きくなってからは全然来なかったし、通信簿も見なかった。私も放っておいたし、親も見せろとも言わなかったし。そうゆう家庭環境で育ちました。

 中学校時代はクラブ活動でソフトボールとバレーボールに入っていました。目立っていた方で、にぎやかだったと思います。これは、あとでわかったことですが、クラスの会長に、私が選ばれていたのに、担任の先生が「会長は女ではダメだ」ということで、選挙を3回もやり直して、結局男の子になったそうです。「このゆびとーまれ」を立ち上げてからも、「そのころから、会長の素質あったものね〜」と友だちには言われています。私は、本人なのに覚えてなくて、そんなにショックもなく、のんびり生きていた。能天気で、みんなからは、「滑稽こっけいな人だ」と言われていましたね。

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自然と介護の道に

 母が病気で、小学校4年生ぐらいのときから入退院をくり返すようになりましたので、病院にいるときは付きそいをしたり、自宅にいるときはお風呂に入れたり、おむつをかえたり、トイレへゆうどうしたりと、小さいころからしていました。

 小さいころと言いましても中学の2年の時に、「もうあと半年の命です」といわれていました。まぁ、そのあとも10数年生きたんですけど。寝たきりで。そういう母親でしたので、看護の道に入った根底に、母親のことがあったのかなと思います。

 小さいとき、姉が言うには、私は「医者になりたい。人の病気を治すのだ。」と作文に書いていたそうです。小学校のころは、母親が金沢の大学病院などに入院していたので、医者になって病気を治したいと子供心に思ったのでしょうね。それが、私中学の時に書いた作文では、「看護婦になりたい」と書いていました。

 でも、中学から高校に行くときに「女に学問はいらない」と父親の反対にあいました。それでも高校に行って、高校でるときは会社か銀行に就職しようと思っていましたが、のんびりしていて、私が高校3年のときに女性部のチアガールのリーダーをしていて、11月に発表会が終わってから祝賀会をあげたときには、同級生のほとんどが就職先か進学先がある程度決まっていたのに、決まっていないのは私一人でした。それで、結局就職できなくて、看護の道に入りました。私の母が中学のときから病気がちで寝たきりでしたので、それがあって看護婦になったのかな、と思っていますが、どんなきっかけ、というと特にないように思います。

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家で死ねないお年より

 看護婦は20年間やっていました。最初の5年間が内科病棟ないかびょうとう、次の11年間が小児病棟しょうにびょうとう、最後の4年間が内科病棟の呼吸器こきゅうき内科でした。肺癌はいがんなどで治療できないお年よりなどの最後の死因しいんのほとんどは肺炎はいえんで、呼吸器内科はそういう患者さんが多く、しょっちゅう病棟で人が死んでいかれました。

 ある時、私がつとめていたところに入院していたおばあちゃんが「家に帰りたい」と言っていたので、喜んで家に帰られると思っていた。ところが、障害を持ったままの退院だったので、家で誰かがなければいけないけれど、お嫁さんが働きに出ているため家でみることができない。それで、結局は老人病院に行かれました。あのころの老人病院は、手足をしばられたり、すぐ髪の毛を短く切られたりしてかわいそうだったのです。

 その時、いくら赤十字で命を助けても、最後の場面でお年よりが泣いているのではないか、みんな最後は「家に帰って、たたみの上で死にたい」と思っているのに、病院でなくなっていかれる。医療いりょうとは何なのかと考え、一緒いっしょに働いていた西村和美と梅原けいことをさそって、「たたみの上で死にたい」というお年よりを支えるために「このゆびとーまれ」を始めたのです。

騒動そうどうの血が

 「このゆびとーまれ」を始めたのは、そのおばあちゃんがきっかけだったんですが、もちろん、私一人ではできなかった。

 同僚の西村と梅原がいたから出来たと思っています。あの三本の矢とか三人寄れば文殊の知恵とか言われますけど、もしも私一人でしたら一本折れてしまって「このゆび〜」があったかなかったかわかりません。彼女たちもめでたい私と同じような性格で、女は度胸かなと思っていますね。男の人のほうが、いろいろ計算や考えてしてしまって踏み出せなかったと思いますね。

 ふみ出せたのは「女三人寄れば」ということと、最近、学者たちからよく言われるのですが、米騒動こめそうどうの血が流れているのかな。富山は米騒動が生まれた場所で、大正初期(1918年頃)に、漁師のおっかさんたちが、自分のこどもたちに米を食わせるために米屋の蔵を襲撃しゅうげきしたものが、全国にいっせいに広がったんですね。この「このゆびとーまれ」が始めた富山型の福祉サービスは、米騒動のように全国に急に広がったりするということはないけれど、富山の女性ががんばってやってきたというのは、米騒動の血が少しは流れているのかな、と思っています。

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1人だったら独裁者になっていた

 一応、私は赤十字病院で20年間ずっと現場で、西村が14年間看護学校の先生で、一つ年下なので19年間働いて5年間が現場、梅原は5年か6年が先生であとが現場。私が一応トップ、西村はここのスタッフの教育などいろんなことで支えてくれた。梅原は、家庭の事情があって2年でやめましたので、今まで続けてきたのは西村と私二人です。もちろん最初は梅原の力あってこそですが。

 結局3人いると3人の考えがありますよね、もし考えがまとまらなかったら多数決じゃないですけど2対1に分かれたりして。いろんな考え方があってよかったんじゃないですかね。2人だと2通りの考え方しかないですし、かといって5人だと5通りの考え方が出てきますので、やっぱり3人ぐらいが良かったと思いますね。一人だったら独裁者になっていたでしょうね。

食べていくのは大変だった

 最初から西村と「客も少なく、食べていけないだろう」と言っていた。本当のところ西村は1年赤十字で働いて、あんたにご飯を食べさせてあげるよと言っていたのですが、結果的には一緒にやめることとなった。もちろん看護婦3人をやしなえるだけの給料はでませんでした。

 それで、ここに自分の家の畑があって、私は黒部の人間なんですが、この近くに叔父さんと叔母さんがいて畑をしていたので、そこに「このゆびとーまれ」の施設を建てたというわけです。

 退職金は手取りで1100万円だったんですけど、100万だけ持ってあとの1000万円全部「このゆび」のために出しました。案外スパっと出しましたね。

 「このゆび」を始めたころは、平成5年ですから、介護保険が始まるまで7年あった。一人の痴呆ちほうのおばあちゃんを4時間預かったら1500円、一日2500円、ご飯代500円入れたら3000円の料金ですが、全然仕事になりません。あのころの障害を持ったお年よりが入る特別養護老人ホームは一日600円でよかったのです。600円対3000円、私たちは5倍高く、お客さんは来ない。平成5年度の1年の平均利用者数は1.8人、2人にも満たない。1日の利用料金平均4000〜5000円、それで看護婦3人食べていかなきゃいけないのは苦しかったです。今は介護保険のおかげで、お年よりを介護すれば、一人10000円や8000円の収入になったりしますから、楽になっています。

*特別養護老人ホーム:65歳以上の者で、身体上または精神上いちじるしい障害があるために、日常生活で介護を必要とする者(いわゆる寝たきりの人など)で、自宅において適切な介護を受けることが困難な者を入所させる施設のこと。

補助金はだせない!?

 富山市に何か補助金を求めようとしたときに、市から「『このゆびとーまれ』の対象は子供からお年よりまでで、ましてやそこに障害者までいれようとしている。やっていることは、長寿ちょうじゅ福祉課にも児童福祉課にもあてはまらないから、補助金は出せない。お年よりならお年より、障害者なら障害者、どれかにしぼったらなんらかの制度を引っ張ってきて補助金を出せるけれど」と言われた。けれど、私たちは補助金のために活動の方針を曲げることはできない、と補助金をもらいませんでした。

 私たちは「このゆび」を、お年よりを支えたいと思って始めましたが、今の社会、介護に困っているのはお年よりだけではない。障害者・障害児にも、健常な子どもたちにも介護は必要。そういった人たちが一つ屋根の下で過ごすのはごく自然のことであり、お互いに相乗効果があると思っていましたので、ああゆう話が出たときも私たちはやりたいことをやる、対象を絞らない、と言いました。

市民が救ってくれた

 私達の収入は1日に4000円かそこら。看護婦3人ご飯を食べていけません。そうしたときに、「このゆびとーまれ」がんばれ、という寄付金が1年で1千万円以上集まった。今でも年間5百万ぐらい集まりますかね。それで経営がやってこれました。はじめ補助金が出なかったときに、市役所など立派な建物が建っていて、あの建物を見ただけで腹が立ちました。そんなお金使うぐらいなら私たちに例え年間に50万円でも百万でも出せるんじゃないかと思ったんです。

 だけど、結局は、市民一人一人から、3000円、5000円、1万円なりが集まった訳で、考え方・発想を変えれば税金・補助金と言うものは市民から集まったものが税金で、それを分配したのが補助金なのですが、私達は市民から「このゆびとーまれ」指名つきで直接の補助金が集まったのではないかと考えるようになったときに、富山市にも腹が立たなくなりました。それに、補助金より、市民の人達から直接お金をもらっているからこそがんばれましたね。その方が責任重いですから。

 ありがたいことに私たちから寄付を下さいというのも、立ち上げのときは言いましたが、その後は一度も言った覚えはないんですよ。だけど、市民の人たちががんばれといって寄付を下さる。親からお金をもらっている立場の学生さんたちでも500円とか、1000円とかいただく。「感動した」と言って持ってきてくれる。活動や生き方に感動したと言って。親からしぼり取っている学生さんが、あるいはバイトしたものかもわかりませんが、なぜお金をくれるのかわかりませんでしたが、私達は学生さんからもらったことのほうに感動しましたね。例えば大人の方から3000円なり5000円なりもらうのも、もちろんうれしいのだけれど、学生さんは、500円あればジュースも買えるし、ラーメン一杯ぐらい食べられるのに、そのお金を寄付してくれる。何人も持ってきてくださったときに、こんなに若い人も応援してくれているんだ、とうれしかったです。

 とある近い県のある方がですね、「このゆびとーまれ」に2億円寄付するとおっしゃってきたんですね。それにはいくつかの条件があったんですけど。結局お断りしたんですよ。金のために動いたら私達の趣旨しゅしが変わるな、と。でもね、後からのことなんですけど、その方2、3ヶ月したら死なれたんですよ。おかしくって、あのとき「うん」と言っていれば2億円入ったのに、とみんなで笑ってました。どうして、うちらはこんなに不器用なんかいねぇって。これは笑い話ですけどね。

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NPO法人の認可

 結果的には、平成9年度から県と市から年間180万円、平成10年度から360万円の補助金がでるようになりました。それで、平成12年になって介護保険が始まった時も、補助金を続けてほしいと申し出に行ったのですが、そのとき県の担当部長さんから「いつつぶれるかわからない所に、いつまでも補助金を出すことはできない。補助金は打ち切る。介護保険の指定業者になって、株式・有限・NPOなんでもいいから法人化して他会社と同じ土俵どひょうで戦いなさい」と言われた。

 そのときは、法人って言っても何があるのかわからない。株式会社と有限会社の違い、NPO(特定非営利活動法人)と社会福祉法人の違いもよくわからずに、ただ「このゆびとーまれ」は、行政と民間の中間的な存在で、非営利が目的だし、もし、社会福祉法人を選んでしまったら、制度ありきの活動になってしまうんじゃないかと。ニーズがあって活動し、そして制度がついてくるのはNPOだろうと、NPOの申請をしました。それで、平成11年5月12日でしたかね、ちょうど看護の日、ナイチンゲールの誕生日に認可を受けました。

国が自分達に追いついてきた

 日本では、街からはなれたところに施設しせつをつくって、障害者やお年よりをそこに集めることが福祉だと考えていた。最初は30人規模だったものが、50人、100人、500人と大きくなっていって、同じような人たちだけで村を形成するようになった。自分から外に出る力のない人ばかりを集めているというのは問題です。本当は、国は、そういう人たちと街で一緒にくらすにはどうするべきかと考えなければならなかったのに、不自然な施設を山の中に作ってしまった。

 もしも、この施設が、私たちの富岡町として、町の住民全員がお年よりだったら、不自然だし誰も輝かない。住民の中に赤ちゃんがいて、障害者がいて、お年よりがいて、私たちがいる。それで始めて、赤ちゃんも、障害者も、お年よりも輝く。地域で誰もが死ぬまで安心して暮らせる街づくりが日本の課題だと思います。だから大きな施設を作ることは、私は反対です。

 人間の対応って、相手が誰であっても、そんなに変わらないと思うのです。たまたま障害があって手や足がない、たまたま知的に遅れている、私のその人たちへの対応は7割方どんな人間でもいっしょ。3割ほどは特徴があって、それはプロがしなければならない。ですから、いろんな職種の方が入ってやっています。看護師・保母さん・学校の先生・養護学校の先生・介護福祉士、ヘルパーさんや社会福祉士、いろんな人で介護している。介護は決してやさしいものではなく、難しいところがいっぱいあります。簡単とは言えないのですが、障害者・健常者・痴呆者が一緒に介護されることに反対する人がいるのが理解できない。見に来た人は、みな「これが自然でいいね」って言うのに、いざとなったら反対する。おかしいですよね。

 ただ厚生省も、こういう形が自然なのではないか、とわかってくださったのか、特区として認められましたし、ショートステイの部分は制度にもなりました。そういった意味では、国も私たちが目指す方向に近づいてきたのではないかと思っています。

 いろんな人がいますが、不思議にもうちではけが人が1人も出ていないのです。よくお年よりだけのデイサービスのほうが、よっぽどけがしていますね、転んで骨折こっせつしたとか。よくこういった話をしたとき反対されたのが、「お年よりだけでもけが人が多いのに、いろんな人が来てけが人が続出したらどうするの」と。ここが始まってもうすぐ12年なのですが、けが人が出ていないのは良いことなのではないかな。

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重要なボランティアの存在

 富岡町のこの施設だけでは、職員は26人いまして、看護師・社会福祉士・社会福祉士主事・学校の教員・元養護学校教諭・保育士・介護福祉士・有償ボランティア(知的障害者4人・健常ボランティア2人)・無償ボランティア40人にここを支えてもらっています。

 ありがたいですね。最初、職員3人で始めたとき、すでにボランティアさん32人の登録があったんですよ。今も登録だけは300人ほどあるのですが、実際に来ているのは40人ほど。ですから、今はスタッフがたくさんいるからボランティアさんに来てもらわなくてもいい日があるわけですよ、労力的にね。だから、オンブズの役割(活動の調査・監視かんし役)でボランティアさんに入ってきてもらおうかなと。風通しをよくしておかないと介護のレベルが下がる。つまり評価までしてもらえるようなボランティアさんがいいかなと思っています。

 やっぱり、施設が閉鎖的になったら危ないし、危険が多い。私が給料を払っている人達ばかりであれば、口をふさぐことができます。でも、オンブスとしてボランティアさんが来てくれれば、お給料払ってないから口をふさぐことはできない。風通しをよくして、だれもが気軽に入ってこられる雰囲気がいいんじゃないですかね。

 「このゆび」は、ぱっと見た瞬間、誰が利用者で、ボランティアで、職員かがわからないんですよ。うちの職員も、私も利用者に間違われることもあります。50代の方も利用者でおられますからね。私は看護師なんだけれど、白衣は着ません。普通の格好でいます。ここが自分の家だと思ったら、看護師さんが家まで白衣着ていたら仮装行列みたいでしょ?だからそれでいいと思っている。

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小学校区に一つできて欲しい

 今までに、痴呆のおばあちゃんが、ここで二人亡くなられました。平成5年10月2日から毎日来られて、2001年1月1日午前5時39分、私と西村がそい寝をして亡くなっていかれた。もう1人は、8年4ヶ月来られていた方なのですが、その人も16日間「このゆびとーまれ」で寝泊りして、私と西村が最後にそい寝して午前3時半に亡くなっていかれた。「お年よりに畳の上で死なせてあげたい」とずっと思っていましたから、それを実現したことになります。

 「このゆびとーまれ」の富山型が小学校区に1つ、もしくはポストの数ぐらいできたらいいなと思っています。私はもうこれ以上はつくれないから、自分と同じ思いの人達に立ち上げてもらいたい。何年か前に全国展開しないか、その方がもうかるだろう、というお話があった。蕎麦そば屋やコンビニなら、つゆやダシなど仕込みを一緒にすれば全国展開するのは問題ないんでしょうが、そんな商売みたいにはできない。そう言ったら、男の方だったんですが、そうですか、と帰っていかれましたけど。

 私は私と同じ思いを持っている方が、同じような施設しせつを立ち上げていってくれたらいいと思っています。そして、この社会が一番住みやすくなる1つのバロメーターが、精神の病気をかかえた人の問題だと思います。この人たちが安心して住める社会をつくれたら、日本の福祉は高レベルになる。でも、残念ながら、精神の分野は、まだまだ難しい段階です。「このゆびとーまれ」にも精神に障害をもった人が来られていますが、一番長い人で6年、今いる人で4年ぐらい続いている。「このゆびとーまれ」では、どんな人でもOK。どんな人でも排除はいじょしないというのが方針ですから。通常、精神の人たちは長く施設を利用されないのですが、うちでは、続いているので、うれしいな、と思っています。

今は行政と対等な存在

 県の主催で起業家育成講座の講師を3年しています。一番最初は、私たちから県に声をかけたんです。それで、1年目は30人募集して57人来られて、2年目は50人のわくに100人来られて、3年目は60人に69人。今年は4年目になるのですが、この講座のおかげで、「このゆびとまーれ」の富山型が広がってきている、というのもありますね。県がバックにいる、県も積極的なんだ、と地域の人もわかってくれると、信用がついて、みんなが応援してくれて。最初は、冷たかったですからね、県も市も。でも、今考えるとお金も出さなかったが、口も出さなかった点がよかった。例えば、他の県では、誰かが富山型の施設にしたいと言うと、県が口を出す。金も出さずに口を出す。だから、富山県は10年間見守ってくれたことに感謝していますね。あのときに、こんなことしちゃいけない、と言われていたら今の「このゆび」はなかったと思う。後で聞いたらハラハラしていたらしいですけどね。でも、口を出さずに見守りつづけていた。それはありがたかったと思いますね。

 今は、対等な立場で意見を言い合ったりできる。別に運営資金をもらっている訳ではないから、私たちも意見を言うし、県も惣万たち意見はないか?と聞いてきますし。いい環境なんじゃないかな、と。それに、今は、国も巻き込んでいますから。

目の前の一人を救え

 「このゆびとーまれ」を立ち上げた私たちは3人とも、赤十字の看護学校を出ているんですが、赤十字の理念に「明日の100人を救うより、今日の1人を救え」というのがあるんです。「このゆびとーまれ」の使命は、『今、目の前に困っているお年より・障害者を助けること』。だから、私たちの場合は、まず介護される側のニーズがあって後から制度がついてくる。制度があって、活動するわけじゃない。じゃあ、明日の100人は誰が救うのか、というと私は行政だと思っています。行政は制度とか作ってらっしゃいますからね、ですから100人を救ってもらわないといけない。

 NPOのできることは目の前の1人のお年よりしか支えることができないのです。でも、それが大事なんです。その積み重ねが100人になる。

 私たちが平成5年に始めたこの事業は、実は7つの制度を新しくつくる必要があったんです。逆に言うと7つの制度に引っかかっていた。それを無理やりしたのですから、そういう意味では度胸があったなあと思う。でも、制度っていうものを知らなかったからできた。知らないということは楽やな、と思いますね。下手に制度を知っていたら、恐ろしくてできなかったかもしれない。自分達は知らなかったから、法律違反していると思わなかった。そのわりに、市とかいい顔をしないな、とは思っていたんですが、それくらいのめでたい性格でよかったのかもしれない。これが神経質な性格だったら駄目だったんでしょうね。

自分に何ができるか考える

 アメリカ大統領のケネディの言葉が好きなんです。「国が君たちに何をしてくれるかではなく、君たちが国に何ができるかを考えて欲しい」

 私もね、富山市や富山県のために何ができるかと言えば、毎日の積み重ねしかできないのですよ。「このゆびとーまれ」に来ていらっしゃるお年よりや障害者の方を毎日安全に、楽しく過ごしてもらう、これしか出来ないんですよ。日本人の国民1人1人が自分に何ができるか考え、そしてそれを行動に移していったら、ゴミ1つ拾うにしても、日本の国が住みやすくなると、私は考えているんですよ。これですね、私を支えている言葉。

 あまりむずかしいことを考えたら何もできないけど、例えば、すれ違うおばあちゃんに声をかけることは誰でもできる。「このゆびとーまれ」で育った子がね、自分の親たちが自分の子供ながらえらいと思う、って言うんですよ。何故かというと、スーパーで会う車椅子の人や全然知らない人とかに、「今から買いもの?」とか「おはよう」、とか自然に声をかける。そしたら親がびっくりして。私は子どもから教えられると。声をかけられた方は誰も腹立つ人はいない。「おはよう」とか、「これから買い物?」と聞かれても、「どこの子かな?」と思っても、聞かれて腹の立つ車椅子の人は誰もいないと思う。

 だから、小学校5年、6年の人でも、大人でも、いろんな人に気軽に声をかけたり、こまった人がいたら、何か手伝うことない?と自然に言える社会になったら、障害者の人でもお年よりの人でも、どこでもでかけられるようになるのではないかな。きっと声をかける人は暖かいまなざしでその人たちを見ていると思う。だから、車椅子の人もその暖かいまなざしを見たらありがたいのではないかな、と思いますね。

 先生が言ったから声をかけるんじゃなくて、近所のおばあちゃんが一人ぐらししていて、80代になるとゴミ1つ出せなくなる。小学5年・6年の子が小学校の通り道やからおじいちゃん、おばあちゃん出していこうか?と言ってくれたら、どんなにうれしいか。

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これからは子どもの問題

 平成4年のときに、この道に行こうと思ったわけですが、そのときは、お年よりに対する介護はひどかった。しばったり、おかゆの上におかずをのせ、その上に薬までのせる。いろんな人たちがいたけど、これはお年よりの問題で、それを解決すればよいと思っていた。ところが、10年たってこれからの時代は、高れい者の問題でも障害者の問題でもない、子どもたちの課題だと思うようになった。

 例えば、一例だけど、「文科省が朝ご飯を食べていない子供達のために学校給食を出す予算を検討している」と聞いたときに、「日本の文科省は何を考えているのか?国はどうなるんだろうか?家族とは何なのか?」と思った。それで、あるところでそう言ったら、「惣万さん、東京のある学校ではもう朝の給食を出しているよ」と言われた。やっぱり食べてこない子が多くて、誰も好きで出している訳ではないけれど、理念ではなく現実からそうなってしまったのだろう、と。そうなると、今度は夕食を出してくれる学校、受験期には夜食を出してくれる学校が出てくるのではないか。  

 では、家族とは何なのか?そういう意味では教育もそうだが、今子供達にとって根本的に考える時期にきているのではないかな、と思っている。私はこれからは子供の問題だと、子供をどう育てるか、どう教育するか、がこれからの日本の課題なのではないかと、私はいろんな人をお世話しながらそう思います。

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評価は二つあってよい

 今の子供を見るとあまり派茶滅茶はちゃめちゃな子供はいないし、どちらかといえばお利口さん過ぎるかな、と。自分は、どっちかというと小学校から高校にあがるまで、なんだか知らないけれど学校の先生にはよく叱られた。例えば、何人かで悪いことしていても、私だけがたたかれたり、死ねとかまで言われた。悪いことしてないときでもしかられた。学校の先生には、かわいがってもらったんだけど、どうも、この子をしかっておけばクラスがまとまる、というのと、この子がいるからやりにくいという両面があったみたいです。

 ですから、評価もどっちかというと、人間がよいという評価と、ダメないいかんげんな人間だという評価があった。私は2つの評価があるのが自分らしいのかな、と思っています。お利口さんに生きようともしなかったし、派茶滅茶に生きた訳でもない。でも、小さい時から自分らしく生きてきたんじゃないかな、型にはまることなく。